朝、目が覚めると、まずは台所に立つ。2センチ程度の深さの水を湛えた古いミルクパンをガスコンロにかけ、湯を沸かす。自分のために一杯のコーヒーを淹れるためである。その間に、食べるものの用意をする。食パンの上に作り置きのポテトサラダ、さらに溶けるチーズをのせ、トースターで5分ほど焼いたあと、粗挽きこしょうをふりかける。レタスを常備する習慣をつけたので、それを適当にちぎって水菜とざっくり混ぜ、玉葱のスライスをのせて、冷蔵庫のコレクションの中から今日の気分で好みのドレッシングをかけると、これがサラダになる。そうしたところで、ちょうど湯が沸いている頃合いになっているので、マグカップにドリッパーを被せて丁寧にお湯を注ぐ。この珈琲豆の香りが格別だ。
これが朝ご飯。食べると、美味しい。幸せを感じる。自分で生み出した幸せ。
美味しいことは素晴らしい。なにしろ、誰も傷つけない。
しばしば「趣味は何ですか?」と訊かれることがある。否、そんなに頻繁にはないが、というか、ほとんどないのだが、けれども、訊かれたときのことをふと考えることがある。さて、そう問われたら何と答えよう……、音楽鑑賞? 読書? どうにも何だか違和感がある。
例えば、「わたしの趣味は『呼吸』です」と答えたとしよう。すると、たちまちその場は880ヘクトパスカルの失笑の大低気圧が発生し、周囲は劇的な被害に見舞われると推測できる。死者が出るかもしれない。なぜならそれは、当たり前だからだ。人間は無意識に呼吸をしている、意識して行うことではない。逆に意識しないと呼吸ができないようでは、油断すると死んでしまう、生命の維持ができない。人間の生きる仕組みだ。当然である。そして世の中、当然のことは言わなくていいことになっている。みなまで言うな、滑稽だ。というわけだ。
しかし。当然て何なのだ。当たり前とは? 常識とは? 普通とは?
そんなことを考える。僕は酸素と同じくらい音楽を必要としているし、食パンのように片手にいつも文庫本を手にしているけれど? そんなことを考える。こんなにもインターネット環境が発達した今、年賀状を紙に印刷して郵便で送る理由は何なのだ。 これも当然だからだろうか? そんなことを考える。技術の進む速度は日に日に増している。ひょっとすると、人が生まれて死ぬあいだに、江戸から平成への時代の変化と同等の革新が進んでいるかもしれない。少しよそ見しているうちに、エコカーが行き交う国道の中央に、脇差しにちょんまげ姿で放り出されるなんてこともあるかも。それなのに常識なんて言ってられないのでは? そんなことを考えてみる。
さて。突然話は変わり、ありがとう2011年。良い意味でも悪い意味でも個人的にも国家的にも激動だった。新年を歓迎する人は大勢いるが、去った年に感謝する人は多くないと思う(とくに去年はきっと)ので、僕は去年に心から粛々とお礼を伝えたい。ありがとう。もちろん、去年というのは、その2011年僕に関わっていただいた人/ものすべてに対しても。
そして、きっぱり忘れたいと思う。
僕は2011年の秋、ウェブデザイナーとして数年勤めた会社を退職した。いろいろあったけれど、そこで獲得した最もかけがえのないことは、知識でも技術でもなく、お客さんに喜んでいただくことの幸せだ、と確信している。
美味しさ、笑い、心地よさ、美しさ、感謝、笑顔。
これらは僕が考える、誰も何も傷つけない、幸せへのきっかけのいくつかである。何もウェブに拘ることはないし、技術にもメディアにも常識にだって捉われる必要はない。今までは今まで、これからはこれから。自由の下で何事にも拘らず、新しさと気づきを追求し、ただ、目の前のあなたを幸せにすることを考えていきたい。そう思う。
ああそうか、僕の趣味は「考えること」。
……いや、無意識のうちに考えているから、趣味とは言えないか。